まいにちウクレレ

うたとウクレレ、コンサーティーナ moqmoqオカザキエミ うたいます うたいます

人魚

このあいだ、あそびにいったおうちの娘ちゃんが、6歳で、とても会話がじょうずで、ついついおもしろくていろいろ話していた。
海であそんでいるときに、その子が沖のずっと先をみながら、
ねええみちゃん、人魚っているのかなーあ
ととつぜん言った。
そうだなあ、わたしはまだ会ったことないなあ。あーちゃんは?
と聞きかえすと、
なーい!
元気なこたえが返ってきた。
そのあとにぽつりと、
でもさ、ないけど、いるかなあ
その子はもういちど言った。
わたしは、いるよと言ってあげたいけれどてきとうには言えなくて、でもいるかもしれないともおもうし、いてほしいし、やっぱりみたことないし、ローレライやらセイレーンの伝説とか、人魚姫の話とか、どうでもいいのに関係ある絵があたまにたくさん浮かんでしまって、んんんーとうなったあとに、
わたしもあーちゃんも会ったことないけど、すんごーい向こうのほうにいて、誰かは会ったことあるかもね

こたえになっていないようなことを言った。
ねー
とその子が言って、この話はおわりだった。


 わたしが幼稚園に行っていたとき、みんなでテレビをみる時間があった。あるとき飴細工のひとがでてきて、いろんな動物をするするとつくり上げるところを、みんなでうわーとかなんとか言いながらみていて、口の中に食べたことのないそのやわらかい飴の感触がひろがったりしていた。
 そのとき担任の先生が、「じゃあ今度みんなで、あめ細工のおじさんのところに行きましょうね〜」とかなんとか、せりふは覚えていないのだけれど、とにかく「そこへみんなでいこう」と言われたことを、幼稚園児のわたしはとてもたのしみにしていた。でもその日はこなくて、そのまま卒業してしまったときに、まだあめざいくを見てないのに!とかなしいきもちになったことをすごくよく覚えている。幼稚園の記憶なんてほとんどないのに、なまぬるい飴の感触のまぼろしと、口約束が果たされなかったことへの悲しさがいつまでもわすれられない。これはきっととてもささいなことで、もっともっとかなしいことだってあったとおもうのに。
 おとなになるにつれ、このことがわたしに大きくのしかかってきて、こどもにはいきおいでてきとうなことはいわない、というルールがわたしのなかにできた。
 きっと、そういうてきとうな目にあうことも、おとなになる段階のうちのひとつなのだろう、とおもう一方で、30歳になってもおもいだすかなしい瞬間が、その子にとってどれなのか傍目にはきっとわからないのだ。すくなくともたまにしか会わない、ひとの家の子には、できるだけ真剣に考えてこたえようとおもっている。人魚の話をするたびに、その子がこのときをおもいだすかもしれないし。
 
 まあ、砂あそびに夢中で、ぜーんぜん聞いていなかった可能性もあるけれど、それでいいのだ。
 それにしても、おとなになればなるほど、絶対ないとか、絶対あるとか、確信的なことがどんどんいえなくなるなあ。人魚っているのかなーあ。どこかにはいてほしいけど、正直なところこわいので、会いたくはないかもしれない。ひととさかなの境目を、ものすごくじっくり見て、ひえーってなったりするような気がする。