まいにちウクレレ

うたとウクレレ、コンサーティーナ moqmoqオカザキエミ うたいます うたいます

秋の気配

9月に入って、日中は暑いけれど、もう海にひとがわんさかいることはなくて、水着ギャルだっていなくなった。まとまった雨がふったり、風はすずしい、夜の虫のなきっぷりといったらもう、秋としかいいようがない。オフコースの秋の気配をうっかり聴いてしまい、せつなさがとまらないぞ。
秋冬は、わたしのもっともすきな季節だというのに、今年は30年めにして初めて、ちがう気持ちで迎えている。海のそばに住むっていうのは、こんなに気分が変わるものなのだな。冬はきっと変わらずすきだけれど、これからは夏もこいしい。季節ってすばらしい。

今の家を、出ようとおもっている。とだいぶ前から近くにいるひとには言いふらしていて、そうでもしないと、ずるずるここにいたくなってしまう気がするのだ。ものごころついて以来初めて、こんなにのんびりして、なんにもしない日もあって、ただ海をみて、音楽を聴いてごはんをつくって、楽器を弾いてうたっていた。ここにいることは、愛着があって、精神的にはとてもすてきだけれど、じっさいたくさんの負担がある。それがうたうことやいろいろを圧迫しはじめている。と同時に、この家はわたしにとって役目を終えたなあ、としみじみ思えるような事件もあって、気分的には長い夏休みを終えて、また歩き出すようなかんじで、この家を出発できたらいいとおもっている。

なんか人生考えちゃった、と、事あるごとに話すともだちがいるのだけれど、そのひとはしょっちゅう人生を考え、ときおり弱音をはいたりくよくよしたりしながら、それでもはためにはかなりまっすぐに生きている。わたしはそのひとをとても尊敬しているし、お金がなくたってとてもつよい。そのせいでできないことだってたくさんあるけれど、できることがすごくつよい。それはほんとうに尊くて、愛おしくて、すてきなことだとおもう。負けないくらいしょっちゅう人生を考えてしまうわたしは、そうするうちに、大切なひとと生活をともにすることや、ひとつのことをやりつづけること、つまりそれが人生なのだが、親しいひとびとのおかげで具体的に考えるようになってきて、だいすきなこの家にいることは、人生の夏休みだったのかなあ、とおもうようになった。四苦八苦して家を維持しながら夏休みなんて、へんてこなはなしかもしれないけれど。そもそもこれまでの生活では、家には寝に帰るだけの毎日だった。うちがきらいなわけではなくて、ただそういうふうにくらしていた。だから家に執着している自分がとてもふしぎだ。この家を離れることに対して、どうしてもセンチメンタル。
そう、センチメンタル。秋の気配がとてもそうさせてきて、ついこんなことを書いてしまったのだ。うやむやな流れのままに、おわり。