まいにちウクレレ

うたとウクレレ、コンサーティーナ moqmoqオカザキエミ うたいます うたいます

しごとがら

 ひさしぶりに実家に帰ったところ、ちかごろはラーメン屋の店長をしている弟が、すっかりムチムチしていて、味も濃くないと気がすまなくて、ちょっと調子がわるい、とつぶやいた。世の中はラーメン好きなひとであふれているけれど、わたしは実のところ、自分からは行きたいって言わないし、食べないなら食べないでずっとだいじょうぶ。理由は味が濃いっていう一点に尽きる。きっと濃くないとおいしくないのだろう、こうしてのきなみ濃い味っていうのは。しょっぱいものを食べるのってすごく体力を使うとおもうのだけれど。弟は、今まで味見に毎日ラーメン一杯は食べていたけれど、最近やめている、といった。毎日食べていたのか。。そういう理由で、世の中のラーメンはみな味が濃いのかなと、ふとおもう。
 弟は少し前に同窓会に行ったらしく、友人が御用邸の警備の仕事をしているという話になった。御用邸というのは基本ひとがいないところなので、毎日銅像を眺めている、らしい。もちろん細かく言えばいろいろあるのだろうけれど、いちにちじゅう一点を見つめている仕事というものに想像のつきようがない。自由になるのは思考だけだとすると、ものすごい哲学が内面に満ちていくような、気がする。果てしない。

 いつも行くコーヒー屋で、以前レギュラーだったケニアという豆が、期間限定で戻ってきた。わたしはその味がとてもすきだったのだけれど、戻ってきた初日、ひさしぶりに飲んだその味は、なんだか他人のような、ふしぎなよそよそしさ。でも翌日飲んでみたら、わたしのせいなのか、豆のせいなのか、淹れるひとのせいなのかわからないけれど、すっかり馴染んだ味になって、一瞬ケニアだってことをわすれそうだった。やっぱりとてもおいしくてすきだ。またしばらく飲めないなあ、さよならケニア。
 いつだったか新しく入れる豆の試飲会のようなことになっていたときに、蒸らしやお湯の温度を変えながら比べていたら、その都度味も印象も全然ちがう。あるときとても印象的で、また飲みたいな、とおもう味になった。残念ながらそれは採用されなかったのだけれど、いまでもときどきあの感じをおもいだす。
 喫茶店で豆の種類を選べるとき、ひとびとはどんな気持ちでそれを決めるのだろう、と日に日にふしぎになってゆく。産地による豆の特徴って、あるけれど、味に影響する要素が多すぎて、そこで自分の求めるものを正確に選びとるのは不可能だとおもうのだ。それがすてきなところだけれど、だったらなんのためにあんなにメニューがあるのだ。全然、ネガティブな気持ちではなくて、ただただ、ふしぎ。もし、なんでもいいから、今日はこれだっていうのをお願いします、と淹れるひとに頼めるとしたら、いや、ことばにするとおおげさだなあ、でも気持ちとしてはそれがわたしにとっていちばんの贅沢だとおもう。

 階下の世話好きなおじさんは、おそらくわたしのでたらめな行動時間をもとに、わたしの職業は「病院勤め」と仮定したらしかった。みんないろんなことを考える。ふふ。