まいにちウクレレ

うたとウクレレ、コンサーティーナ moqmoqオカザキエミ うたいます うたいます

まるくおさまる

 このあいだ、演奏しながら初めて感極まって泣きそうになった。ぐっとこらえたけれど。どんなに感動的な演奏であっても、やる側の冷静さはすごくたいせつだ、といつもおもっていて、だから演奏中はいつでもちがう自分が遠巻きに自分をみている。そんなわけで、うたいながら泣きそうになるなんて、めったにないことだった。でも、もしほんとうに泣いてもよいときがあるとしたらそれは、普通の女の子になります、といってマイクを置くときくらいなのではないかとおもう。
 そこは時間の染み込んだライブハウスで、リハーサルの一音目から胸がいっぱいだった。ひとりで生音でうたうとき、どうやったら建物が鳴るだろう、とアンテナをはりめぐらせるのだけれど、そこはもう、がつんとでっかい音がたくさん鳴ってきた、まちがいのない木のひびきがあった。木はほんとうにふしぎだ。時間とともにふるえていって、なぜかどんどん鳴る。それだけで、今夜はまちがいないという確信があった、たぶんみんなに。ドラムのひとは、シンバルをひとつ鳴らしたあとに、にやりとわらった。それをたまたま見てしまって、なんでにやっとしたの、と聞いてみたら、すごくいい音だなあとおもって、と言った。そのとおりだとおもった。

 バンドの演奏って、船のようだなとふとおもう。船頭がいて、乗組員がいて、乗客がいて。それで海のぐあいや、天気のぐあいや、あらかじめ決められた航路や、いろいろあいまってステージができあがる。なにかがだめでも、すばらしい船頭の手腕でどうにか挽回できたり、すばらしいあつまりでも、どうも振るわなかったりもする。あたりまえのようで、とてもふしぎだ。
 うれしいことに、いつもとてもすてきな船に乗っている、とおもう。じまんの船ばかりだ。それでわたしはわたしのしごとをする。船頭のときもあれば、乗組員としてはたらくときもある。でも同じ船旅は二度とないのだ。

 ごくたまーにだけど、とても過酷な船に乗り合わせることもある。もちろんわたしだってそれに加担している。でもそういう日にかぎって、帰り道にちょうどよく会いたいひとに会えて、すべてがまるくおさまったりするのだ。それもまた旅のふしぎ。