まいにちウクレレ

うたとウクレレ、コンサーティーナ moqmoqオカザキエミ うたいます うたいます

できるようになるということ

 目の前でへんてこな箸の持ち方をしているひとをみて、ついついレクチャーを始めてしまいながら、すぐに迷っていた。ただしいと言われていることを「教える」のってどうなんだろうと。すると目の前のひとがまさに、つぶやいた。直したほうがいいとはおもうけど、もう前の持ち方ができなくなるのはちょっと残念な気がする、と。普段から、わたしもいろんなことに対してそういうふうに考えてしまう節がある。できるようになる、というのは、今の状態から変化する、ということで、それが明らかに良いかっていうと、けっこう微妙な線のこともあるとおもうのだ。わるいように言えば、できないことができなくなるっていうのかしら。ややこしい。でも基本、なにごとも変わっていくのはすきなのだ。となると、世の中で正しいって言われていることに対してなんとなく反発を抱いているだけのような気がしてくる。
 それで、わたしは箸をきちんと持てるように、小さいころばあちゃんにいやっていうほど仕込まれたわけなんだけれども、変わりたいからってあえてへんてこな持ち方をしたいともおもわないのだ。どうしてだろう、と考えると、そこにうつくしさを見出しているからなのかも、しれない。いわゆる正しい持ち方ってやつで持っていると、たいていのものは箸でうつくしく食べられる。その状況をわたしは気に入っているのだとおもう。そうか、そもそも、作ってくれたごはんをうつくしく食べたいという気持ちがあって、それができるのがこのやり方で、だからこれが最適な持ち方、という共通の認識になるのだ。そういう順番でおもわないと、なんだか持ち方を矯正というか強制されているだけになるのではなかろうか。
 と、持ち方を研究しつつ悪戦苦闘するひとを眺めながら、ここまで考えて、そうかそうか、となって口を開こうとしたら、目の前のひとがまたちょうど、すごいことに気づいたかもしれない、とつぶやいた。この箸には適量っていうのがあって、それ以上つかもうとするからうまくいかない。そんな必要がないんじゃないかって。日本食ってそういうもんなんだぞってことじゃないかって。それほんとにすごいなあ、とわたしはおもった。そういうふうに考えたことがなかった。しかもなんていうかこう、見方は違えど、すてきな順番にたどりついていた。
 で、これまでのを踏まえて、ちゃんと持ちたいってことにならないの?ときいたら、すでになってます、とのこたえ。できれば今までのも、ただしいのも、できるといいとおもう、というような主旨のことを言った。それはもはや、できるできないっていうことではなくなっていて、いい感じだ。とわたしはおもった。

 なにげない出来事なのだけれど、なんだかすごく大事なことだったような気がして、わすれないように書いておきました。