まいにちウクレレ

うたとウクレレ、コンサーティーナ moqmoqオカザキエミ うたいます うたいます

ニュアンス

 ある日、自分の作った帽子をかぶっていて、こりゃわたしよりこのひとのほうが似合うなーというひとがあらわれた。それで、その帽子はそのひとにあげることにして、かわりにわたしの壊れたエフェクターを直してくれることになった。なんだかうつくしい流れにうっとり。でもひとにあげるにはかぶり心地がいまいちだったので、裏地をつけて納品。それをやっと渡せた昨日、かぶっているそのひとの姿をみて、編みものの奥深さを感じる。
 見てすてきだなーとおもうのって、すんごく細かいところだったりする。帽子だったら、あまっているてっぺんのぽよっと具合だとか。そもそも毛糸の雰囲気とか。目のひろがり具合だとか、、というのは作り始めてからの話だけれど、そうでなくても、ニュアンス。そう、ニュアンスなのです。それで、編みもののもの(?)って、帽子はとくにそのひとの頭のかたちによって本体がまったくちがうかたちになるのだった。ぶかっとかぶるとかわいいやつを、頭のおおきなひとがかぶったら違うニュアンスになるだろうし、逆もしかり。あまる部分がどのくらい余るかとか。それは作りながらでは読めないのだ。昨日わたしに、編みもののあたらしいたのしみがうまれた。自分のつくったものを、自分ではない誰かが身につけること。わたしがかぶってもでない、すてきなてっぺんのぽよ具合を昨日はみた。たまらん。

 昨夜のみにいったお店に、ふらりと入ってきた英国人と、ずいぶん長いことしゃべっていた。英語の先生をしていて、3年居てもあんまり日本語が得意でないみたいで、どこにいってもさびしい、と言っていた。でもだからこそ彼は、日本人がどういうふうに「喋れない」とおもうのかをよく知っていて、相手の話を辛抱強くきいていたし、どうにかしてわかりあおうとしていた。できるだけシンプルなことばで。わたしは相変わらずいきおいだけででたらめにしゃべっていたけれど、それでいいやっておもっている。ニュアンスとは真逆の話だ。言語に関係なく、会話はホスピタリティだとおもう。おなじことばを放っても、ひろうひとによって盛り上がったりなにも起きなかったりするし。まあ盛り上げりゃいいってことでもないけれど、彼は結局5時間くらいそこにいた。たのしかったのかな。金曜日にコーヒー屋でまた会おうといって別れた。きてくれたらおもしろいなあ。