お弁当にまつわるあれこれ
お弁当をつくるのに凝っている。凝っているといっても、凝った料理をつくるということではなくて、ごはんの上にてきとうにおかずをのっけて、別の容器にみそしるか、みそ玉とてきとうな具を入れる。日によってはおにぎりの日もある。奄美で乗ったフェリーで買って以来のお気に入りのわかめおにぎり。
ある日、前の夜に飲みすぎて朝のお弁当作りがだるくなり、コンビニでお弁当を買った。おかずが何品も入っているやつ。でもごはんどきを前になぜかテンションが上がらない。食べたところで、おなかはいつもよりいっぱいになったけど、やっぱりなんとなく上がらない。味がどうこう言い出したら、じぶんで作っているものは失敗もあるし、なんなら昨夜の残り物で完全にどんな味かわかっているのに、それらで構成されたわかりきったものを、なぜか食べる前とてもたのしみなのだ。
この気持ちはなんなのだろうとひとしきり考えたときに、土井善晴さんの、家庭料理についての文章を思い出した。家庭料理は、極端にいえばおいしくなくてもよい。ちょっとしょっぱかったらごはんをたくさん、味が薄かったらしょうゆや塩を自分でかけたり。もしかしたら、くさっていたりもするかもしれない、変な味がしたら食べない。そういうことを体験するのが家庭料理なのだと、細かい違いがあるかもしれないけれどざっくりそんな意味あいの文だった。それを思い出したら、わたしが自分のつくったお弁当を食べ終わったときの気持ちがなんとなくしっくり。コンビニで朝買った食べ物がくさっているということはまず絶対と言っていいくらいありえないだろうし、そうならないための周到な方策が取られているのだろうとおもう。それに比べて、自分のつくったものは、できる範囲で気をつけてはいるけれど、買ったものに比べると相当安全性が低いようにおもう。考えるまで自覚していなかったけれど、中身が無事なうちにちゃんと食べ終われたという達成感込みのお弁当、そう思ったらこの満足感に妙に納得。いまのところお弁当はすべて無事に口に入っている。自分で完結しているからのんきなことが言えるけれど、誰かのためにお弁当をつくっているすべてのひとたちに、敬意と感謝を表します。(オカザキエミ)