まいにちウクレレ

うたとウクレレ、コンサーティーナ moqmoqオカザキエミ うたいます うたいます

手紙

 なにごとも体力なのではないかという気がしている。
 というのも、すっかり日記を更新するのもSNSに投稿するのも、たいへん。面倒というわけではないのだけれど、たとえば旅に出ていて、帰ってくると意外とへとへとで、おおげさでなく一日じゅうまるっと寝て、また出発、みたいなことになってくると、もう書くより寝ていたい。わたし寝るのそんなにすきじゃなかったはずなのに、と最近よくおもう。ただ体力が落ちているという気もする。たぶん、こどものころに習っていたクラシックバレエがとてもハードで、それを週に何度もやっていたから、いままではとにかくばかみたいに体力があった。そのときの貯金がいいかげん切れてきた、そんなかんじ。そりゃ切れるってものです。
 それで、旅のあいだにいろいろ写真をとったり、そういうのをアップしたりするのもあとまわしになりがち。そんななか、ひさしぶりにお手紙を書いた。すこし遠くに住んでいる、お世話になったひとに、みんなで撮った写真と、お礼のことばを送った。
 郵便屋さんとともだちになってから、郵便というシステムをとても尊敬している。あたりまえのように、ひとからひとへと届く。大きくなるにつれ、機械がたくさん使われているのだろうけど、最後の最後はひとのちからなのだと、そのひとから聞いて知った。だからちょっとくらい宛先がまちがっていても、ちゃんと届く。それがほんとうにすごいことだとおもう。だからここぞというときには、どうしても郵便をつかいたい。集合写真を送るのなんて、ほんとはメールでぴぴっとやれば一瞬。でもちゃんとからだをととのえ、時間をかけて、書いて封をするときのよろこびよ。なんていうか、封がしたいのかもしれない。あのなんともいえない達成感。もうあともどりができないかんじ。おおげさかしら。
 同時に、デジタルの良さをかみしめるときも多々ある。おかげでどこでもしごとができるようになったし、今じゃないと、というときに間に合うすばらしさ。
 いつかは郵便もなくなってしまうのだろうか。考えてみれば、手紙1枚とどけるのに命がけの時代だってあったのだ(最近忍びの映画をたてつづけにみたので、影響されています)。矢文とかもあったな。手から手へと渡ってゆく紙切れ。どんどん安定して届くようになって、それを追い越すスピードのインターネットができて、そのうちだれも、わたしだって、手紙に見向きもしなくなる日がくるのかも。手紙の良さも、メールの良さも、わかるような過渡期に生きていてよかったなあ。
 とここまで考えて、いやまてよ、どんな時代も、なにかしらの過渡期なのだろうなあと思い直す。いろんなことがぐるぐるかわっていく。そんななかで、毎日同じ場所でふんばってお店をやっているひとだとかを、とてもすごいなあとおもう。そうだ、なんでこんなことを考え始めたかって、ちいさなコーヒー屋を営むともだちのお店でおきた奇跡の再会の話をきいたからだった。